積読(つんどく)日記

本はただ机の上に積んであるだけ・・・の状態で日々過ごしています。新聞や雑誌・映画・テレビなどから、気になったことを書いています。

「終活」を哲学しよう

先々週、「リテラ「21世紀の人文学」講座2015 「終活」を哲学しようー生と死の幸福論ー」という広島大学が社会貢献事業として開いた講座に行ってきました。

講師は、広島大学大学院文学研究科の松井冨美男先生と根本裕史先生でした。

私は今年日常的な介護生活がなくなってから、自分の老後問題を身近に感じるようになりました。

「さてさて、これからどうしたらいいのだろ。これまでの介護の経験を踏まえて、自分はどうするのがいいのかな~。どんな老後を送ったらいいのだろう」そんなことを考えています。

 

「「老い」は自分ではわからなくて、他者によって気づかれる。時期が来たら「終活」の準備に入る。欲望の方向を変えて、経済力に合わせた生活をする。「若いですね!」という言葉に惑わされないで、壮年期に還ろうとするのではなく、死に向かう生き方をする。環境の違いで死の受け止め方は違う。「子どもが遊び疲れて家に帰るように死を迎える、それが理想ではないか」」

 

こういったお話で、私にとってタイムリーでした。

終活を準備する社会」という言葉を聞いて、亡くなった義父のことを思い出していました。

義父は「自分しかやるものがいない、ほかの者もみな年寄りで、やる者がおらん」と言って、ずっと世話役を引き受けていました。一人でできなくなっていくと、子どもや周りの人のフォローや気遣いでこなしていました。もう「老い」の世界に入り込んでいるから、自分では判断できなくなっていました。

お仲間の人たちも「やります。任せてください」と言いたいところだが、「仕事があの人の生きがいなんだから任せといたほうがあの人のためになる」と思われていたのかもしれません。

「こうやって周りの人とかかわることは悪いことではないんだろうけど、これでいいのかな、誰のため、何のためになってる?」などなど考えることがありました。

 

判断がつくうちに自ら決断していく、時期が来たら、交代をする、バトンを渡す。

その後は、自分にできる社会貢献をしたり、子ども時代遊んでいたようにいろいろ好きな事をやって楽しく過ごす。

そののち、すっと旅立つ。

歳をとっていく私たちも見送る人たちも、どちらも、「終活を準備する時間、させてあげる時間」を持てるような社会にしていく、そういうことでしょうか。

堂々と死に向かって生きていく。

さあ、私は何をして楽しんで生きていきましょうか??